哲学生のブログ

哲学を専攻している大学生がいろいろ考えるブログ。

やる気がないというのは、原因じゃなくて結果だったのではないか

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この文章は、やる気がなくて何も行動できない人に読んでほしいなって思う。こんなことを言っている僕も、やる気の無さに悩んでいる。だから、自戒の意味も込めてこの文章を書きました。

 

 

やる気がなかった自分

僕には、高校が終わってから二か月くらいの長い休みがあった。

僕がそこで何をしていたかというと、ニートのような生活だ。「ニートのような」と言うよりは、完全なるニートだった。友達と遊ぶ予定のある日はまだマシなほうで、それがない日はゲームをして過ごしていたし、もっとひどいときは一日中寝続けて夜に起きたこともあった。 

 

やれることはたくさんあった。大学に向けて勉強したり、車の免許を取ったり、アルバイトをしたり。あとは、海外旅行も行きたいなとも思っていた。

選択肢はたくさんあったけど、僕は何もしないことを選んだ。

 

僕はそんな自分のことを「やる気がない」と言って、しょうがないと思い込み、無為な日々を過ごしていた。

 

なぜなら、このときの僕は、自分が行動しない原因を「やる気がないから」だと思っていたのだ。

でも、「やる気がない」というのは、本当に、行動しない原因なのだろうか。

 

僕はここで、ある逆説を唱えたいと思う。

 

やる気がないは原因ではなく結果ではないのか

普通、私たちはやる気がないから行動しないと思っている。

しかし僕は、やる気がないから行動しないのではなくて、行動しなかった結果としてやる気がないという概念が生まれるのではないか、と思うのだ。

 

どういうことか。

 

まず私たちは、行動しないという選択肢を取ったときに「なんでだろう」と考える。その原因は、ちょっとした意思の弱さかもしれないし、疲れていたからかもしれない。強制されるのが嫌だったのかもしれないし、意味がないと思ったからかもしれない。それとも、複合的な要因なのかもしれない。

 正直、そこはどうでもいい。少なくとも、「やる気がないから」ではない。

やる‐き【遣る気】 物事を積極的に進めようとする気持。

出典元:広辞苑第七版

広辞苑より 「やる気がない」という文句は、「物事を積極的に進めようとする気持がないこと」を意味する。でも、行動しないときにそんな状態なのは当たり前だ。「やる気がない」というのは、当たり前のことを言っているに過ぎない。それは決して行動しない理由にはなりえない。

 

しかし多くの場合、私たちは行動しない原因を「やる気がない」としてしまう。すなわち、私たちは、行動しなかった結果「やる気がない」という虚構をつくりだしてしまうのだ。

 

それはなぜか。

 その答えが分かりやすくてスッキリするってのもあるだろう。

 

でも一番の理由は、「やる気がない」と言ってしまえば何もしない自分が正当化された気分になるからだと思う。

 「やる気がない」って言えば、なにも行動しない自分の弱さを「やる気」に擦り付けることができるし、「やる気がない」って言えば、一時的なものだから大丈夫だという安心感を得ることができる

 実際は逃げているだけなのに。めんどくさくて、楽がしたいだけなのに。

 

この思考は、負のスパイラルを生む。

行動しない→やる気がないと思い込む→やる気がないから何もしなくてもOK→やる気がないという思い込みが強化される⋯というふうに。

 

そしてこれを打開する策はただ一つ。

行動すること。

そうすれば「やる気がない」という思い込みも消えるだろう。

とは言っても、そう簡単にはいかないと思うので、最後に『幸福論』で有名な哲学者アランの言葉を送ろうと思う。

 

最後に

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人間は、もらった楽しみには退屈し、獲得した快楽のほうをはるかに好むものなのだ。〔中略〕だから、行動を伴わない楽しみよりも、むしろ行動を伴う苦しみのほうを選ぶのである。

出典元:アラン(1993)『幸福論』(白井健三郎訳)集英社文庫

アランが言うには、本当の幸福は行動した先にあるのだ。

 

私たちは、何もしていないときは人生を虚しいと思いがちだ。そしてその理由を「生きる意味はない」とか「どうせ死ぬ」とかいう外的要因に転嫁する。

しかしその本当の理由は、与えられた楽しみに甘んじて、真の幸福を知らないからかもしれない。