哲学生のブログ

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映画グリーンブックを見て、差別について考える。私の差別反対の理由。

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出典元:映画『グリーンブック』公式サイト

 

グリーンブックという映画を見た。

 

「なんだその映画?」と思われる方もいるかもしれないので、公式サイトからあらすじを引用しておく。

 

1962年。天才黒人ピアニストは、粗野なイタリア系用心棒を雇い、黒人専用ガイドブック(グリーンブック)を頼りに、あえて差別の色濃い南部へのコンサート・ツアーへ繰り出す。旅の終わりに待ち受ける奇跡とは?まさかの実話!

出典元:映画『グリーンブック』公式サイト

 

つまりこれは、人種差別をテーマに描かれた映画だ。作中では、黒人ピアニストのシャーリーが差別されるシーンが何度も出てくる。

彼に感情移入していた私は、「なんて最低なやつらだ!」と心の中で差別主義者を批判していた。

 

しかし私は、「差別」について真剣に考えたことがあったか?

これを機に、差別について考え、それを記そうと思う。

 

 

 

※以下、映画の内容はほとんど含みません

 

そもそも差別とは何か

差別の定義

そもそも差別とはなんだろうか。私なりの意見を示しておく。

 

まずは辞書から引用だ!!!

 

偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。

出典元:大辞林第三版 

 

ここで重要になってくるのが、「扱いをすること」という言い回し。

これはすなわち、差別的な思想を持つこと(偏見や先入観によって相手を見下すこと)は差別ではなく、それを行動に移した時点から差別になるということだ。

 

どういうことか?

 

具体的に説明すると、白人が有色人種を見て嫌悪感を抱いているだけでは差別にならない。彼らがその嫌悪感を示す行動を取ったときに、それは差別となる。

 

なぜここを明確にしたかと言うと、私たちが差別的な思想を持つことは避けがたいからだ。

誰しもが偏見や先入観を持っているし、知らず知らずの内にそれを判断の材料にしてしまう。

 

いじめと差別

人間には、自分達と異質なものを排除する動きが備わっているように思う。

 

いじめと差別は構造的に似ている。

多数派や力の強い者が、自分達との違いを理由に、少数派や力の弱い者を排除するという点で。

 

学校はいじめを禁止する。

だけど全国でいじめが問題となる。

そうなるのはやはり、人間にそのような特性が備わっているからではないだろうか。

 

「差別はいけない」は差別か?

今の時代、きっと多くの人が「差別はいけない」と言うだろう。

しかしここで一旦立ち止まって考えてみてほしい。

 

「差別はいけない」という発言には、差別主義者を差別する意図が含まれているのではないか?

 

これを確かめるには、「差別はいけない」という発言に正当な理由はあるか(「差別はいけない」というのは偏見や先入観ではないか)を検討しなければならない。

 

差別をしてはいけない理由

「差別はいけない」と言う人たちの理由はなにか。

 

その思想の大きな基盤となっているものは、「共感能力」「道徳心」だろう。

他人の痛みを想像できる人にとっては、差別は当然ながら悪だ。

 

しかし、これは正当な理由となり得るのか。「共感能力」と「道徳心」を持たない人にとってはどうなのか。

 

彼らは、差別を禁止する理由を持たないのだろうか。

 

個人的な意見

私は差別反対派である。

ここで、私が差別に反対する理由を示しておこうと思う。

 

差別反対の4つの理由

差別は不愉快だ

私には「共感能力」と「道徳心」が備わっているんです!!!

 

と言っているわけではない。

 

ただ、差別を見たときに「嫌な感じ」を受ける。

 

自分が嫌だと思うものは禁止しろ!というとてもとても個人的な意見なので軽く受け流してくれて構わない。

 

差別は偏見や先入観を固定する

差別は、偏見や先入観を取り除く機会を奪う。

 

映画の話に少し戻る。

 

白人のドライバーであるトニーは始め、黒人差別主義者だった。その度合いは、黒人が使ったグラスをゴミ箱へ捨てるほどだ。しかし、黒人ピアニストのシャーリーとの旅を通して彼の考えは変わる。彼は初めて黒人と真剣に向き合ってきづいた。「黒人も白人も関係ないのだ」と。

 

つまり言いたいのは、私たちが持っている偏見や先入観には間違っている可能性があるということだ。

そして、その可能性がある限り、私たちは差別をしてはいけないと思う。

 

自分で考えていない

差別する人は、理由を自分で考えていない場合が多い。

 

例えば、黒人差別の場合。

黒人は汚いだとか、黒人は白人より下だとかいう社会の迷信を信じてそれを行動に移す。

 

それは、自分で考え抜いた結論ではない。ただ、社会の風潮を鵜呑みにしたに過ぎない。

 

それはまるで一種の宗教だ。

黒人は自分達より下だという根拠のない信仰を守り続けるという宗教。

 

なんか怖くね?

 

人間性が合わない

差別主義者は、「自分は自己中で、自分のコミュニティ以外の人間に対する共感能力と道徳心が欠如しています!」と言っているようなものだ。

 

俺はそんな人間になりたくない!!!

 

結論

私たちは、自分から差別的な思想を完全に取り除くことはできない。その思想を行動で示してしまったときに差別となる。

 

私は、差別反対者だ。しかし、私のような差別反対者も正当な理由を考えることを怠ると、差別主義者へと変容してしまう(正当な理由なしに差別主義者を見下しているという点で)。

 

大切なのは、自分の偏見や先入観が間違っている可能性を考慮すること。

偏見や先入観があったとしても、それを行動で表さないようにしよう。