哲学生のブログ

哲学を専攻している大学生がいろいろ考えるブログ。

私たちは死刑囚か無期囚か

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「人間は生まれながらにして死刑囚である 」

 

なんだそれ!?

 

これは、哲学者パスカルの言葉だ。

 

どういう意味なのかというと、人間は生まれながらに死を宣告されており、その点で私たちは死刑囚となんら変わりないということらしい。

 

なるほど、言いたいことはなんとなくわかる。うーん…でも、私たちには少し理解しがたい話ではないだろうか。

理解できないのも無理はない。なぜなら、現代に生きる私たちを例えるなら、死刑囚よりも無期囚のほうが適切だと思うからだ。

 

頭にはてなマークが浮かんだ方。大丈夫。今から頑張って説明します。

 

死刑囚と無期囚の違い

めちゃくちゃ重い見出し。

少しだけ我慢してください。

 

これについては、加賀乙彦が著した『死刑囚の記録』の一文が、参考になりそうだ。

 

死刑囚の濃縮された時間の対極に、無期囚の"薄められた時間"がある。

出典元 加賀乙彦『死刑囚の記録』中公新書、1980年

 

これはつまり、死刑囚は精力的に活動する一方、無期囚は無気力になってしまうということだ。そしてその違いの大きな理由は、死への距離にあるという。

 

言うまでもなく、死刑囚にとって死は身近で、無期囚にとって死は果てしなく遠い。

 

その距離の違いが、このような差異を生み出している。

 

私たちは無期囚だ

となると、パスカルが「人間は生まれながらにして死刑囚である」と言ったのにも、死への距離が関係しているたのではないだろうか。

 

パスカルが生きたのは17世紀のフランス。

その時代の平均寿命を調べてみたところ、なかった。

でも、18世紀のフランスの平均寿命が見つかり、それは驚くべきことに25歳だった。(社会実情データ図録より)

 

現代の私たちには考えられない。成人式を迎えた5年後に死ぬなんて。

 

パスカルにとっては、死はとても身近だったのだ。

彼が人間を死刑囚に例えたのにも頷ける。

 

 

 

では、私たちにとってはどうか。

 

「100年は生きる」と謳われる時代だ。死は果てしなく遠い。というか、日常の中で死を意識することはほとんどないのではないだろうか。

 

そう、これは無期囚と同じだ。現代においては、人間は死刑囚と言うよりも無期囚なのだ。

 

現代の私たちは、「薄められた時間」を生きている。

 

 

似たような日々を延々と繰り返し、暇だ暇だと喚いては人生の意味を問いかけて無気力になる。とりあえず学校に行って、家に帰ってYouTubeを見て、暇を潰すためにゲームをする。

自分で無為な時間を過ごしているのは分かっているものの、この薄められた時間を漂うことをやめられない。

 

なぜなら

死から離れた無期囚だから。

 

終わりに

この薄められた時間から脱出する方法はないのか。

 

死を身近に感じることができれば一番いいのだが。

 

というかそもそも、濃縮された時間は良いもので、薄められた時間は悪いものだという考えはどこからきたのか。

 

これは考えると難しい。

 

とにかく、

 

濃縮された時間が良いとするならば、どうにかしてそれに到達する方法を見つけ出さなくては。

 

 

 

とりあえず私は、死に思いを馳せてみようと思う。