哲学生のブログ

哲学を専攻している大学生がいろいろ考えるブログ。

「理解し合おう」に隠れる傲慢

人間は完全には理解し合えない。

だからこそ、相手を理解しようとすることが大切だと思っていた。

しかし、それは一歩間違えれば傲慢へと変わる。

 

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「人間が完全に理解し合えない」

これは自明だろう。

人々はどうにかこうにか自分の心を言葉で表そうとする。

だがしかし、

私たちは今まで、他人の心を理解できたことがあっただろうか。

 

心から言葉、言葉から心へと翻訳されるその瞬間、少なからず心と言葉の間には誤差が生じる。

コミュニケーションは、伝える側と受け取る側による二重の誤差を孕んでいるのだ。

 

加えて、人によって世界を知覚するフレームワークが違う。育った環境も違う。

さらに言えば、人種や宗教、言語が異なる人々も大勢いる。

それらが違えば当然考え方も変わってくる。

 

差異だらけだ。

改めて考えてみると、差異だらけなのだ。

こんな世界で分かり合えるはずがない…

 

いや、でも、まだ悲観するべきでない。

完全な理解はできないが、理解し合おうとすることはできる。

相手の心の近いところにたどり着こうとするための努力はできる。

 

それが大切なのではないか?

完全に理解し合えないのであれば、

理解しようとすること、理解されようとすること、それが。

 

しかし、全く逆の発想の人々がいる。

彼らは「理解し合えないなら、理解し合おうとする必要はない」と言う。

 

そういう人に会ったとき、どうするだろうか?

「理解し合おう」と思っている人はそう言われたときに、憤りに似た悲しみを感じるかもしれない。 

 

しかしその感情には、傲慢さが見え隠れしている。

 

先程話したように、「理解し合おう」の中には、「完全に理解し合えない」という前提がある。

 

それは、自分にも適用されるべきではないのか?

 

自分の「理解し合おう」という気持ちだけ理解してもらうというのは都合が良すぎるのではないか?

 

つまり、言いたいことは、

もし自分が「理解し合おう」と思っているならば、相手が「理解しようとする必要は無い」という考えであっても辟易してはならない。

もし辟易してしまったならば、それは傲慢だ。

「理解しようとする必要がない」という考えさえも、理解しようとしなければならないのだ。

 

 

まあたぶん、結局、人々は自分と異なった考え方を退けてしまうのだろう。

 

ピラミッドの頂点には、自分が正しいと思っている考え方がある。

その上に立って見てしまうと、否応無しに他人の考えを見下してしまうのだろう。

 

すべてをフラットな視点で見ているつもりでも、心の奥ではそのピラミッドに居座っている。

まあそれもいいかもしれない。

 

ただ私は、そのピラミッドを小さくしてやりたいと思う。

 

完全になくすことはできないが、砂場のおやま程度には小さくできるかもしれない。