哲学生のブログ

哲学を専攻している大学生がいろいろ考えるブログ。

答えの出ない問いにどう向き合うか

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僕等は悩むのが好きだ。

やりたいことはなにか?生きる意味はなにか?などと自分に問い続ける。

 

その問いに答えが出ることはあるのだろうか。

たしかに、「答えと思われるもの」が出る場合もある。

 

最近見た映画「ボヘミアン・ラプソディ」にこういうシーンがあった。

それは、Queenのボーカルであるフレディ・マーキュリーがメンバーに自分がエイズだと伝える場面である。

彼は自分がエイズだと伝えたあと、こんな感じのことを言う。

「俺は、パフォーマンスをするために生きている。死ぬまでそれを続けるだけだ。」

 

こんなにはっきり自分の「やりたいこと」が分かっていたら、どんなにいいだろうか。

俺がフレディ・マーキュリーだったら、悩む必要なんてない!

 

しかし、本当にそうだろうか?

 

僕等が悩むのは、たぶん、不安だからだ。

生きていく上で、何か確実なものがないと不安なのだ。

だからそれを見つけるために、「生きる意味」や「やりたいこと」を問う。

しかし、その「答えらしきもの」が見つかったところで、不安が消えることはない。

 

例えば、やりたいことは何か?と問うて、「宇宙飛行士になりたい」という答えが出たとする。

その次に生まれる不安は、「その道に進むのは正しいのか?」「自分は本当に宇宙飛行士になりたいのか?」「周りに影響されただけじゃないのか?」などというものだろう。

 

結局「答えらしきもの」が出たところで不安が消えることはない。なぜなら、その答えが本当に正しいと言い切れる根拠がないからだ。

 

では、どうするか。

その「答えらしきもの」を信じて進むしかないように思える。

 

きっと、フレディ・マーキュリーもそういう気持ちだったのではないか。

エイズに侵されてもうすぐ死ぬという恐怖の中、彼の不安は人一倍だっただろう。その不安から逃れるために、彼は自分の「やりたいこと」を信じようとした。

 

でも、根拠がないことを本当に信じられるのか?と聞かれると、それは難しい。

こうなると、その類の問いは頭の隅っこに投げてやろうという気持ちななる。そんな不安からは目を背けよう、と。

 

しかし時々、気を抜いたときに不安に飲み込まれそうになる。

 

 

哲学者の鷲田清一さんはこう言う。

〔・・・〕人生の大半の問題には最後の「答え」はない。〔中略〕この問いには確たる答えがないまま、それと向き合うしかない。というか、それと取り組むことにその問いの意味の大半がある。

出典元:鷲田清一『大事なものは見えにくい』角川ソフィア文庫、2009年、13貢

 

結局、答えの出ない問いには、答えが出ないとわかっていながらもそれに向き合うしかないのだ。

そしてそれは同時に、不安と向き合うことを意味する。

 

その向き合い方は人それぞれだ。

フレディ・マーキュリーのように一つの答えを信じてもいいし、

ニーチェが言ったように生きる意味がないことを受け入れてもいい。

あるいは、答えがない問いに悩み続けるのもいいだろう。

 

 

 

 

僕はまだ、その向き合い方が分からない。